岩手県南部藩(盛岡藩)の発祥に関して

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岩手県南部藩(盛岡藩)の発祥に関して

岩手県の北部の青森県側、八戸市の西南部に南部町という地名があります。 

 

この南部というのは、山梨県(甲斐国)に栄えた甲斐源氏の流れを汲む由緒正しき南部氏のことで、源頼朝が奥州に根を張っていた藤原氏征伐の功で、南部氏が現在の八戸地方に領地を与えられ、今の南部町に根をおろしたことに始まります。

 

これが東北の北部地方を有した盛岡・南部藩のきっかけであり、始まりであるとされています。

 

南部氏は鎌倉期に頼朝に出仕して以来、江戸時代の末期までこの地方を治めた大大名で、このことは、凡そ700年間の武家政治の世の中で、同じ土地を領有し続けた大名としては、鹿児島・薩摩の島津家と岩手県・南部家の二家のみであったとされます。

 

初代の南部氏(南部光行)は、甲斐駒でも知られる馬の名産地の甲斐の国の出身で、元より培っていた馬の飼育や牧場経営には大いに手腕を発揮したのです。 そして、八戸地方は南部駒の産地でもあり、これに目を付けたのが、かの源頼朝であったのです。 そして、この馬の管理や鎌倉に貢馬するために設けた行政上の組織形態が「戸」の起こりといわれます。

 

戸は、八戸地方から岩手県の北部地域である広大な地を官営の牧場とし、大まかに九つの区画として運営していたとされます。 現在、これらの名残が岩手県側に一戸町、二戸市,九戸村があり、そして八戸地方には三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そしてここ八戸市があるのです。

 

この後、八戸の南部氏は衰退することのなり、それに代わって伸長してきたのが三戸の南部氏で、後の江戸時代の南部・盛岡藩に繋がったとされています。

 

関が原合戦以前には秀吉によって南部盛岡の基礎が造られ、それ以降は徳川家康からも安堵をされて大名として認知され確立するのです。 この時期に、主藩として盛岡に置かれ南部盛岡藩となっていきます。

 

元より、この地方は不来方(こずかた・今の盛岡)と称していて、戦国期の豊臣家の重臣であった浅野氏から、この不来方に南部氏の本城を置くことを勧められたといわれます。 浅野氏は浅野長政のことで、 秀吉の正妻・ねねの出身家でもあり、後の赤穂事件の赤穂藩浅野氏の祖でもあります。

 


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